看過できないほど重い傷にのみ取り急ぎの処置を施して、イザークの他に行くあてのある者たちと分かれた一行は、比較的傷の重い者を中央に置いた即席の隊伍を組んで街道を東に進み始めた。総勢189名。ほとんどの人間が体躯のどこかしらに重軽いずれかの傷を複数負っており、うち17名は足を負傷して自力歩行不能(このなかにはレックスとアイラも含まれた)。幸いにして、と云うべきか、ラモンたちが馬場から手当たり次第、ドズルの馬か否かにかかわらず、可能なかぎりの馬を掻き集めて連れてきていたため、アイラの部下を合わせても一行が移動に困ることはなかった。傭歩兵として雇われた者たちのなかには馬に乗り慣れない者もいたけれど、もともと身体能力に優れた彼らである。周囲に助けられて教えられているうちに、鞍からずり落ちない程度の技術は瞬く間に身につけた。
 ただ。自身の足で長距離を歩けない17名のうち3名は、おのれでおのれの躯を支えていることもままならない重傷であり、彼らだけは、馬に乗って移動する訳にはゆかなかった。
「魔法治癒できる人材がいないのは、痛いよな」
 食料と一緒に王城から「借りて」きた荷馬車に仰向けに寝かせられた男たちを馬上から見下ろしたレックスは顔をしかめてつぶやいた。200名近い集団のほとんどは、レックスおよびアイラの部下だった。彼らは武器を取らせればなるほど、向かうもののいない歴戦の勇士と化すのだけれど、しかし反面魔法力を駆使するための知識はまったく持っていなかった。戦さ場を渡り歩いた戦士の常として、彼らも止血や添え木などの当座の応急処置の知識は体験から学んで身につけているし、なかにはラモンやマテオのように薬師顔負けの薬草知識を修めている者もいる。が、全身に無数の深手を負った彼らに今必要なのは、薬草を使用した穏やかな治療ではなく、魔法による急速な治癒だった。それも、負傷の衝撃および失血で削り取られた体力をほとんど消費させない、高位司祭による治癒が望ましい。患部の新陳代謝を促すと云う術の性質上、被術者に体力の消費を強要する治癒魔法は、衰弱した重傷者には実は両刃の剣なのだ。傷の治癒と体力消耗の均衡が取れず、施術中に絶命した重傷者を、レックスもこれまで幾度となく目にしてきていた。
「エッダ公爵をはじめ、治癒術を修めた者の隊は、我われとは反対の広場の側に整列していましたからね」
 荷馬車を挟んでレックスとは反対の側に馬を歩かせていたギリェルモが口惜しそうに顔をしかめて応えた。馬車に寝ているうちのひとりは、彼と同じ部隊に所属する、同郷出身の友人だった。襁褓をつけたままで床を這い始めた時分からこれまで、ほとんどすべての時間と思い出をを共有してきた幼なじみが負った傷に苦しそうな息をついていても、気休めの言葉をかける以外に何もしてやれない自分の無力さを、彼はひしひしと噛み締めていた。
「のど、が……乾いた……」
 乗員の負担にならないよう、御者はでき得る限り、細心の注意を払って車を進めているのだけれど、それでも、車輪が粗い舗装を噛むたびにどうしても車体は小刻みに上下してしまう。その振動に細い呻きを洩らす男たちの間から、時折思い出したように水を求める声が持ちあがる。左端に寝かされた男がそうして呻くたびに、ギリェルモは鞍から身を乗り出すようにして懸命に話しかけ、なだめ続けた。
「フリオ、もう少し我慢してくれ。今はまだ、水が無いんだ。水のあるところに行ったら、飽きるほど飲ませてやるからな」
 実を云えば、水はある。水どころかラモンたちが王城の厨房から「もらい受けて」きた葡萄酒まで、この集団は大量に運んでいるのだ。が、重傷者がいくら焦がれて必死に望んでも、これだけは許す訳にはゆかなかった。そんなことをすればたちまちのうちに症状が悪化して死に至ることを、しばしばマテオの手伝いをしていたギリェルモは知っていた。
 幼なじみの声に慰められるのか、フリオはそう云われるとかすかにうなずきらしいものを返して口を噤む。が、すさまじい渇きに耐えかねたように、しばらくするとまた水を求めて呻き始める。
「もう少しだから」
 そのたびにギリェルモはまた同じ言葉を、鼻の詰まった声で必死に繰り返す。そんな彼を少時じっと見つめたレックスは、やはり苦しげに声を絞りだした。
「街道をもう少し行けば、都市がある。あそこは司教座都市だから、司教がいるぞ」
 司祭に治癒を頼めば、助かるかも知れない。
 射し込んだ一条の光明にすがるような表情で、充血した眼をレックスに向けたギリェルモは、唇を噛み締めたままひとつ点頭して返した。
 レックスは荷馬車から離れて隊列の先端部に戻った。街道の両脇では牡丹一華アネモネ花金鳳花はなきんぽうげ、雛芥子の深紅の花弁がぬるまやかな微風に揺れている。花の帯を挟んだ先には、まだ裸の葡萄の木が降り注ぐ陽光にのびのびとその枝をのばしてくつろいでいるし、ぶどう畑のまた向こうでは、花期をほとんど終えた巴旦杏アーモンドの木の群れが、名残の花弁を風に散らしていた。
 良い日だった。
 静かで平和な、どうと云って代わり映えのしない春の1日だ。だのにどうして自分は、こんな平穏な光景のなかで、血の臭いにまみれた躯を馬上に置いて王都からの逃走をはかっているのだろう。不意に疑問が頭のなかで渦を巻いた。判らないことばかりだった。何故アルヴィスは自分たちを攻撃してきたのだろう。何故ディアドラがグランベルの王女で、アルヴィスの妃とされていたのだろう。何故シグルドは殺された。そもそもシグルドは本当に死んだのか。何故。シアルフィ公家にかけられていた悖逆の疑念は晴らされたのではなかったか。だのにどうして彼は死んだ。殺された。その死は、王国政府が求めたものなのか。だとしたら、グランベル6公家もそれに賛同したのか。同意をしたのなら、彼らはシグルド軍に身を寄せている同族の死をも含めて許容したのか。もしそうだったなら、イザークに向かったところで自分たちが受け入れられるはずも――
「落ち着け」
 暗い絶望の狭間に向けて転がりかけていたレックスの思考は、近くから低くささやきかけられた声にふ、とすくいあげられた。
「アイラ……」
 見れば、いつの間に傍にきていたのか、馬を並ばせたアイラがじっとこちらを見つめていた。レックスの愛馬のうちの一頭、栃栗毛のクラッホにまたがった彼女は、レックスの動揺、疑念、悲痛、すべてを知っており、かつその重荷を共有しているような、静かに沈んだ表情を彼に向けて、宥めるような声で云った。
「皆が気にしておる。ここにおる皆にとっては、おまえが頼りなのだぞ。そのおまえがかような暗い表情をしてどうする」
 言葉に釣られて首をめぐらせたレックスは、アイラの指摘が事実であることにようよう気がついた。ラモンやロヘリオたちドズル騎士はもちろんのこと、アイラの部下である庸歩兵の面々までもが、気遣わしげな、気弱な表情で探るような視線をちろちろと送ってきている。縋るようにまとわりついてくる湿った無数の眼差しは、正直かなり欝陶しいものがあった。
(しようがねぇな)
 小さな嘆息をひとつ、レックスは意識して朗らかな声を張り上げた。
「おまえら、なぁに暗い表情してんだよ。俺が考えごとするのは、んなにめずらしいのか」
「然り。皆雨でも降るのではないかと心配しておるのだろう。この時期の遠出で雨に降られるなど、あまり歓迎したいことではないゆえな」
 すかさずアイラが茶茶を入れてくれた。
 笑い上戸なロヘリオが耐えかねたようにぷっ、と吹き出した。
「す、すみません閣下。ですが……」
 続きは痙攣発作のような呵いに呑まれて言葉にならなかった。鞍のうえで身をよじって呵うロヘリオに続くように、遠慮がちではあるけれどくすくすと笑いの波が起きた。
 空気が変わった。
「まったく、俺だって考えることはあるんだがな」
 内心満足を覚えつつ、憮然とした表情を作ってレックスはアイラにごちた。
「そうさな」
 アイラは幼子を誉める母親のようにあたたかな眼差しでレックスに微笑を返してうなずいた。
 少時、無言で馬を進める。湿った土の匂いを含んだ生温い風が後背を撫でつつ行き過ぎて、まだ羊や牛が放されていない空の放牧地の境界線を紡いでいる針金雀児はりえにしだの枝をそよがせた。人馬の接近に驚いたのか、雀の群れが金雀児の薮からわっと飛び立つ。かまびすしく鳴き散らしながら風を切って逃げてゆく小鳥たちの姿を眺めていたアイラが、ふとレックスの方に顔を向けた。
「大丈夫だ」
 確信に満ちた低い声で小さくささやく。
「何がだ」
 尋ね返したレックスににっこり微笑い、アイラは続けた。
「ロヘリオらに聞いたのだが、おまえとおまえの兄は、至極良く似ているそうだな」
「それはたしかに良く云われるが。それがどうかしたのか」
「ああ。おまえは、懐に飛び込んできた窮鳥を鷹の眼前へ放り出すような非情なことはできぬ男だろう。そのおまえと良く似た男なら、血を分けた弟が頼ってきたのを受け入れぬはずがないではないか」
 だから大丈夫、とアイラは静かに請け負った。
「おまえはおまえの兄を信じろ」
 と微笑するアイラを、レックスは無言で凝視した。声が出てこなかった。内心を読まれていたこともさることながら、彼女に一言云われたとたん、論理も理屈も全てを飛び越して納得、安心してしまったおのれに驚いたのだ。
「レックス?」
 無言を続けるレックスをいぶかったアイラが顔を覗き込んでくる。レックスは何でもないと頭を振った。
「ありがとよ、アイラ。おかげで気が楽になった」
 アイラは気にするな、とでも云うように片一方の眉と口の端を持ち上げて肩をすくめた。
「おまえはいつも思い詰める」
「そうかもな。何分繊細な性質たちなもンでね」
「よくも云う」
 真実呆れたように嘆じるアイラにくっくっと咽喉奥で呵ったレックスは、ふと真顔に戻って尋ねた。
「おまえは平気か。平静を装っているけれど、その実、こんなことになって衝撃を受けているんじゃないか」
 遅蒔きながら気がついたのだ。自分が、おのれを見失うほどの衝撃を受けた今度のこの出来事に、アイラが何も感じていないはずがないではないか。これまで自分の感情を整理するのに手一杯で、彼女を気遣う余裕を無くしていた粗忽な自分を殴りたい気分だった。
 が、アイラは綽然と肩をすくめて頭を振った。
「全く平気――と云う訳でもないが。しかし国から逐われるのはこれが初めてではないゆえな。衝撃はさほどでもない。慣れたのやも知れぬ」
「そうか」
 彼女を故国イザークから逐った軍のひとつは自分の父と兄が率いていたものであったことを思い出したレックスは黯然とした面持ちでつぶやいた。暗い相づちを耳にしたアイラの右の眉が跳ね上がる。が、彼女はそれについては何も云わず、言葉を続けた。
「それに、前回と違って今はおまえがいる。心強い」
 弾かれたように顔を持ち上げたレックスにアイラはにやり、莞いかける。アイラを凝視するレックスの全身が細かな顫えを帯びた。
「は、ははは」
 その口から、かすかな笑いがこぼれた。額に片手をやって小さく頭を振る。再度アイラに向き直ったとき、彼は完全に常の自分を取り戻していた。小憎たらしくなるほど自信に満ちあふれた眼が、からかうような光を帯びてアイラに微笑いかける。
「アイラ、おまえは身震いするほど好い女だな」
「今頃気づいたか」
 胸の動悸を面に出さぬよう意識して冷たく応えると顔をそらす。天鵞絨のようにやわらかな笑声が耳朶を撫でた。
 ぞくぞくした。
 笑い声ひとつでさまで動揺する自分も悔しいけれど、その根源である当の本人がそのことを確と見通していることがまた口惜しい。はたしてレックスは、冷淡な受け答えに更に気をよくした様子でくつくつ呵いながら続けた。
「無論アイラが好い女だってことは前から知っていたさ。けれど改めてその魅力の奥深さに気づいたんだ」
「ならばせいぜい感嘆しておれ」
「ああ、そうする」
 にっこり、莞ったレックスが不意に身を乗り出した。強い力で腰をつかまれる。あ、っと思った瞬間にはもうアイラの躯はクラッホの鞍を離れてレックスの腕のなかにいた。
「な、な、な、……」
 これにはさしものアイラも驚倒した。駆足キャンターで駆けている馬から別の馬へ移し替えられるだなど、草原イザークの民だとてめったな者にはできない荒業である。驚愕のあまり言葉を失ったアイラの指から、クラッホの手綱が擦り抜けた。急に鞍が軽くなったことと制御が失せたことに戸惑って足を緩めた栃栗毛は、後ろに続いていたロヘリオがすぐさま引き取った。
 クラッホの手綱をつかもうと腕を伸ばしたはずみで、ロヘリオとアイラの眸があった。驚倒のあまり半ば自失状態に陥ったアイラがめずらしかったのか、はたまた主人の機嫌を直してくれたことへの感謝の印のつもりだったのか、それとも睦まじい主人夫婦の様子が嬉しかったのか、とにかくこのドズルの騎士は、にやりと笑みを投げてよこし、剽げた所作で敬礼を送ってくれた。反射的に微笑を返しかけたアイラは、ふと我に返った。
 身をよじって、こちらの髪に顔を埋めているレックスを睨めつける。
「何てことをするのだ、おまえはあっ」
 が、当のレックスは、何故自分が怒鳴られねばならないのか判らない様子で眉根を寄せるばかり。アイラは彼の胸元をつかんで揺すぶった。
「かような無茶をして、危ないとは思わなんだのか。へたをすればおまえまでもが地面に叩きつけられておったやも知れんのだぞ。どうだ。何か云え。云うてみぬかっ」
 レックスは、すぐには応えなかった。歯を喰い縛って激昂するアイラをまじまじ見つめたのち、素早く彼女に口づける。
「な、な、な、……っ」
 不意を突かれて再度の混乱状態に陥ったアイラを抱き締めて、レックスは至極楽しそうな笑いを響かせた。
「アイラは、怒っていても美人だな」
 耳元でささやかれたアイラは、脱力することを止められなかった。ひとりで怒っている自分が馬鹿に思えてきた。
「何ともまあ、自侭な男だな。おまえは」
 ため息を吐いて広い胸にもたれかかる。レックスは嬉しそうに抱き締める腕に力を加えた。
「2人も乗って走らせるだなど、馬が疲れるぞ」
「フィアルアはンなに脆弱な奴じゃないさ。それに、こいつが疲れたらクラッホに移ればいいだけの話だ」
 どうやらもうすっかり決めてあるらしい。アイラは観念の息を吐いて、完全にレックスにその身を任せた。レックスはアイラを腕に抱いているだけでご機嫌な様子で、鼻歌まで漏らしながら鹿毛を駆った。
 胸廓を通して低く伝わる歌声は、どこか、幼い日に父の鞍のうえで聞いたものに似ているような気がした。

 気がつかないうちに、寝入ってしまっていたらしい。
「見えてきたぞぉ」
 と頭上から聞こえた大声にアイラはびくりと全身を慄わせた。周囲から「おおう」とどよめきが沸き起こる。
「悪い、起こしちまったな」
 何事が起きたのかと頭をめぐらせるアイラのこめかみに軽く口づけながらレックスが謝った。
「否。妾の方こそ寝入ってすまなんだ。不自由したろう」
 レックスはにやりと莞ってかぶりを振った。
「全然。こんな不自由なら、いつでも大歓迎だな。アイラは寝言でも俺の名前をつぶやきっぱなしだったんだぜ」
「虚言を弄すな。妾は覚えが無い」
「そりゃ、寝言だからな。何て云ったか気になるか」
 言葉に乗って尋ねれば、妄想入りの空言を捏造されるのは判り切っていたので、アイラはそれには取り合わずに話題を変えた。
「で。何が見えてきたのだ」
「ああ、ケランナ都市が見えてきたんだ。王都の近郊に散在する外周都市を別にすれば、王都を発って初めて目にする都市だからな。皆嬉しいんだよ」
「なるほど」
 目をやればなるほど、はるか前方、大地がゆったりと起伏して続いてゆく先に、都市を外敵から護る障壁が茜色を帯び始めた陽光を反射しつつ屹立しているのが見えた。
「ケランナは司教座都市だ。重傷者の治癒を頼めるぞ」
 レックスが心底安堵した声で嬉しそうに云った。
 ……が。ことはそう巧くは運ばなかった。
 障壁門で守備隊に留め置かれたレックスたちは、急遽門前に駆けつけた行政代官に、慇懃な口調で、しかしきっぱりと都市への立ち入りを断られたのだ。立ち入りだけではない。水も食料も武器も防具も、聖職者の負傷者に対する治癒行為までも。考えられるありとあらゆる援助および提供を行なうことはできないと、代官は無情に宣言した。
「何故だ」
 激しい怒気に全身を顫わせながら、レックスは低く静かな口調で問いかけた。声こそ静かなものの、歯を喰い縛った表情も、躯の脇に握り締められた両こぶしも、返答いかんでは叩きのめしてやる、との彼の決意を雄弁に伝えていた。
 怒り狂うレックスと至近距離で相対しながら、この中年小柄な代官は、しかしいっかな怯えた様子をおもてに出さなかった。焦茶色の頭髪におおわれた小さな頭を傲然と持ち上げて冷たな光を蓄めた眸でレックスを見上げながら、落ち着いた静かな声で問う。
「ビヌリジ卿。卿はシグルド=シアルフィ公子の指揮下にいらしたとうかがいましたが。これは事実でしょうかな」
「そうだ。それがどうかしたのか」
「数日前に王都から伝令が到着し、本日の日付け以降シアルフィ公子に連なる者に対してはいかなる援助も与えること許さぬ、との命令が伝えられました。国王からこちらの都市を任されております私といたしましては、これに逆らうことはできませんのです」
 判ったらさっさと立ち去れ、との意を込めて慇懃に腰を屈める代官に、レックスは喰い下がった。ことは彼個人の問題ではない。200名近い人間の運命がかかっているのだ。簡単に引き下がる訳にはいかなかった。
「その理由は知っているのか。何故シグルド――シアルフィ公子が国王から攻撃を受けねばならんのか、おまえはその訳を知っているのか」
「勿論。なんでもシアルフィ公子はその父公爵と謀って我が王国の王太子殿下を弑逆し、それによって王国を手中に納めんとの野望を抱いたそうですな。いやはや、何とも恐ろしいことです」
「そんなのは嘘だ。作り事だ。俺は知っているぞ。あいつはそんな大それたことを謀れるような男ではないんだ」
 必死に主張したレックスは、しかし、
「それがどうかしましたか」
 との冷淡な応答に虚を突かれた。
「は。おまえ今……何と云った」
「それがどうかしたのかと、そう申しておりますのです」
「どうかしたかって、――」
 混乱に絶句したレックスをおかしそうに、年長者が未熟な若者を見守るような、哀れむような眼で見やって、代官は言葉を続けた。
「シアルフィ公および公子が真実反逆を企んでいたかどうかなど、私にとってはどうでも良いことなのです。問題は、彼およびその関係者――あなた方ですな――が、国政における正式な手順にのっとって、悖逆者として断罪されていることです」
「それはだから誤解――」
「誤解であろうが間違いであろうが、国政が正式な手順を踏んだ以上、それは国家にとっては真実です。そうして、同じく正式な手順によってこの都市の代官に任命されました私がまずすべきことは、この都市を、ここに住まう万余の住人を護りぬくことです。今ここで王命に逆らってあなたがたを受け入れれば、近々かならず、国王軍がこの都市を包囲しましょう。国王軍は、王命を無視した我々も、あなた方と同罪であると見なして攻撃を仕かけてきますはずです。さすれば我々都市の住民は、本来全く関係のない戦火に巻き込まれることになりましょう。万余の人命を預かるものとして、私は、そんなことを許すつもりは毛頭ございません」
 ひとつの都市を預かる貴族としての誇りと自負、そして責任感があふれるほどに満ちた鋭い眸を見たレックスは、彼が生きているうちはけして、自分たちがケランナ都市へ入るのはかなわないだろうことを悟らざるを得なかった。無論レックスにはそんなことをするつもりはさらさらなかった。さまで信念に満ちた男を斬って捨てるなど、彼にできることではなかった。
「判った。都市へ入ることは諦める」
 喰い縛った歯の間から、慄える声を搾り出して云う。
「が、司教の治癒だけは頼む。3人でいいんだ。3人、死にかけた者がいるんだ。ここで治癒を受けられなければ死んでしまう重傷者だ。頼むから、彼らだけは助けてくれ」
 が、代官は無情にかぶりを振った。
「なりません。この都市には現在、王命を運んだ使者のひとりが滞在しております。司教が治癒を施すために壁の外に出たとなれば、彼の耳に届かぬはずがありません。王命を無視すれば、のちのち、我が都市はなんらかの負債を王国府に対して支払うよう強制されますでしょう」
 冷静な口調がレックスの怒りに火を点けた。
「死にかけた哀れな人間を見捨てるつもりか」
 気がつくと彼は、代官の胸ぐらをつかんで締め上げていた。小柄な代官は、人並み以上に長身のレックスにつかまれてほとんど宙吊りになりながらも、切れ切れに反駁した。
「わずか3名。それも私にとっては何ら責任のありません見ず知らずの男3名と、この都市の住民すべての命運を引き替えにしろと、そうおっしゃるのですかっ」
「……っ」
 歯軋りするレックスを睨めつけて、代官は続けた。
「したければするがいいっ。ただしこの防御を破ることができたらなっ」
 彼が叫ぶと同時に、門扉が勢い良く音を立てて閉ざされた。障壁の上部から十数名の兵士が現われて、弓弦を引き絞った弓箭および発動準備を整えた魔法弾を門前の集団に素早く向けた。
 レックスは諦めた。諦めざるを得なかった。
 無論彼および彼が率いる集団がその気になれば、こんなわずかな数の防御など、瓷器製の置物のように易易と粉砕できるだろう。が、そんなことをしてどうなるか。都市住民は彼らを侵略者と見做して非難を寄せ、攻撃するだろう。彼らの協力や援助など求むべくもない。司教だとて、街の防衛を強引に破って入り込んだ侵入者に治癒の奇跡を与えることを拒否するはずだ。神の奇跡は善男善女のものなのだから。強引な進入でレックスたちが手に入れるのは結局、「おのが都合と欲望がために罪無き代官および都市の防衛兵を殺害した極悪人」との刻印ひとつだけなのだ。そんなものを唯々として受け入れるほど、レックスの自尊心は萎びてはいなかった。
「……解った」
 低くつぶやいて手を開く。支えを失った代官が地に崩れ落ちて喉元を押さえ、激しく咳き込み始めたのを見ることもなく踵を返す。
「おまえら、今の話は聞こえたな。この都市には寄らずに行くぞ」
 颯爽と鹿毛にまたがったレックスに、代官はひび割れた声で話しかけた。
「一応云っておくぞ。王の使者は、一定以上の人数集団が立ち寄った場合には、何らかの理由をつけて彼らを引き止め、早馬を王都へ派遣したのち、王軍の到着を待てと命令してきた。が、私は早馬を出さぬ。その代わりにおまえたちに早くこの場を立ち去れと命ずる」
「それはドウモアリガトウよ」
 それが代官の親切や同情から醸し出された言葉ではないと解っていたレックスは、口の端を皮肉に持ち上げて応えた。
 王軍が追いつけばその地はたちまち戦場となる。都市の付近が戦野となれば当然、都市だとて何らかの被害を受けずにはすまされない。王――もしくはその代権者――は都市に兵力の提供を命ずるはずだし、王軍の補給は都市が負担せねばならない。加えて下手をすれば敗残兵や無頼の者が混乱に乗じて都市内部に進入し、どんな狼藉を働かないとも限らない。都市にとって自分に関わりのない戦さなど、迷惑以上のなにものでもないのだ。
 したいのなら、戦さはすれば良い。ただし自分たちには関係のない、どこか遠方で。
 それが代官の本音だろう。ある意味人間味溢れた台詞と云える。皮肉な嗤いをたたえたまま、レックスはフィアルアの腹を蹴った。
(王の使者は本当にあの中にいたんだろうか)
 レックスたちが進むにあわせて躯の向きを変え、狙いを保ち続ける壁上の兵士たちを見上げながら、レックスはふと思った。が、すぐにこれは詮ない疑問だと嘆息する。
 王の目付役がいようがいまいが関係ない。重要なのは都市自身がレックスたちに援助の手を差し伸べるのを拒否したことなのであって、そこに目付役の存在が介入する余地はないのだ。

 王国の恩寵を失った我が身の惨めさがひしひしと実感できた。

 その晩。丘陵地帯の陰に寝床を定めたレックスは、王城から持参した葡萄酒すべてを一行に開放した。革袋に詰めた極上のものから、大樽入りの半ば饐えたものまで。呑めるものは全て呑めと皆に命じ、自分もそうした。不様だとは自分でも思ったけれど、酒精でも取り込まないことにはやり切れなかった。皆も同じ気持ちだったのだろう。金雀枝の枯れ枝を集めて焚いた炎を囲み、日持ちしない生肉などをあぶって食べる彼らからは、何事かを忘れて吹っ切ろうとする者に特有の空々しい雰囲気が濃く立ち上って観じられた。誰もがわざとらしいほどに浮かれてはしゃぎ、騒ぐ。勢い良く燃える炎に赤く照らされながら、仲間のおどけた仕草に野卑な笑いをたてる彼らの顔には、しかし怯えの方が色濃く浮いて見えた。
 誰もが解っているのだ。これが意識して作り上げた陽気さなのだと云うことを。誰かひとりが破滅の声を上げれば、その瞬間、脆弱な作りごとは朝靄のようにはかなく消え去って、それらがおおい隠していたはずのものを露呈させるだろうことを。識っていたのだ。現われるだろうものの姿さえ、彼らは熟知していた。が、それは、今の彼らにはまだ受けとめる用意のできていない代物だった。それが見えてしまえば自分たちは立ち行かなくなってしまう。だから、せいぜい無いふりをしてはしゃぐのだ。自分の背中にべっとりと張りついて離れないその気配を感じ取りながら。彼らは懸命に浮かれ続けた。
 ロヘリオとラモンの寸劇に腹を抱えて哄っていたレックスは、焚火越しに、喧騒から離れて行くギリェルモの姿を見つけた。
(フリオの看護かな)
 結局魔法治癒を受けられなかったフリオの魂は、しかし驚くべき生への執着を発揮して、未だ在世を続けていた。 「この分なら、もしかしたら助かるかも知れない」
 夕方彼を診たマテオはそう云って、羽衣草の浸剤で傷を湿布し、冷えた四肢を温石であたためて、一定時刻ごとに当帰の汁を水で薄めたものを唇に少量垂らすようギリェルモに教えていた。だからきっと今も、フリオに血液強壮の薬をやるか、温石の交換に行ったのだろう。思ったけれど、それにしては妙に思い詰めた表情が気になった。
(あいつも疲れているのかも知れんな)
 昼に王都でひと暴れしてから日暮れまで、馬で駆けに駆け続け、野営を決めてからは休む間もなくマテオを手伝って負傷者の治療にあたっていた彼だ。体躯に山積した疲労は、言語を絶するものとなっているだろう。加えて精神的な衝撃もある。王都で不意打ちを受けたときに見せたうろたえようから考えるに、彼の神経は細くて脆い様子だ。その、脆弱な神経は、はたして今度の事態に耐えられるだろうか。
(声をかけてはげましてやるか)
 思ったレックスは、引き止める声を適当にいなしてギリェルモのあとを追った。
 重傷者は、その眠りが妨げられないよう、比較的喧騒の届きにくい岩陰に小さく焚いた炎を囲むように寝かされていた。容体を見守るために交替でついていた看護人は、ギリェルモが当番を代わってくれたのだと嬉しそうにレックスに報告すると、焚火を囲む酒盛りの場へと駆けていった。その後姿が酒宴集団のなかに溶けて消えるのを何となく見送ってから、レックスは歩を再開した。負傷した方の足をかばいながら一歩足を踏みだすたびに、踏みしだかれた野菊や雛芥子の葉や茎が鮮烈な匂いを夜空に放つ。夜鳴鴬の啼声が遠くかすかに聞こえた。顔を上げれば、無数の星星が、二三夜月の顕現を待ちながらあえかに瞬いている。
(好い夜じゃないか)
 足の痛みも忘れるようだ。
 花の香をかすかに運んでくるあたたかな風に両目を細めたレックスは、上機嫌で、患者ひとりの傍に跪いているギリェルモの背に声をかけた。
「よう、ギリェルモ。精が出る――」
 弾かれたように振り向いたギリェルモを見たレックスは、咽喉を詰まらせて絶句した。ギリェルモは、なぜかひどく怯えていた。柔和な顔立ちを恐懼に強ばらせ、両目を見開いて兢兢と自分を見上げる青年を少時見やったレックスは、やがて心配そうに口を開いた。
「おまえ、どうしたんだ。気分でもわる――」
 尋ねながらふと下ろした目が、ギリェルモの指から滑り落ちた椀を見つけた。底に少量残った液体が星明かりを映してしらじらときらめいている。
「え……?」
 ついで視線を動かしたレックスは、ギリェルモの膝先に仰臥している男が、彼の幼なじみのフリオであることを無意識のうちに確認し終えた。焚火に半身を照らされた彼は、傷の痛みにうめいていた昼の様子が嘘のように安らかな表情で目を閉じていた。薬や手当てが功を成したのだったらこれほど良いこともないのだろうけれど。しかし、レックスを見上げるギリェルモの表情はそんな平穏な推測をなすにはあまりに不穏でありすぎた。
 無言で、ギリェルモを押し退けるようにしてフリオの脇に膝をついたレックスは、かすかな微笑を浮かべた口元を軽く覆うように手のひらをかぶせ、ついで首の脈を確かめた。
「死んでいる」
 低くつぶやく。ギリェルモが耐えかねたように嗚咽をこぼしてすすり泣きを始めた。
(結局、駄目だったか)
 ケランナで治癒を受けられれば状況は違っていただろうに。それを思うと口惜しくて遣り切れない気持ちにでいっぱいになる。暗欝な気分でフリオの安らかな死に顔を見やったレックスは、ふと、その口元が濡れて光っていることに気がついて眉根を寄せた。口元ばかりではない。顔の脇も、服の襟元も。大量の水気を吸ってじっとりと湿っていた。眉間のしわは、かすかに身じろぎをしたはずみで膝が椀にあたったときにさらに深くなった。
「……まさか」
 閃いた直感を、レックスは即座に否定した。そんなことがあるはずがない。あって良いはずが無い。小さくかぶりを振ってその不吉な考えを追い払ったレックスは、自分の推測を否定してもらいたい一心でギリェルモに問うた。
「おまえ、今。フリオに何をした」
 余裕を無くしていたためか、声が鋭さをためた低い詰問口調となってしまうのを止められなかった。早く答えろ、答えてくれと念じながら睨めつける。ギリェルモは、しかし答えてくれなかった。小さく慄えながら何かを哀願するような、涙の浮いた眸でレックスを見上げ、ただただ痙攣の発作を起こしたように細かくかぶりを振り続ける。その怯えきった哀れな表情がレックスの怒りを誘った。
「ギリェルモ、答えろっ。おまえは今、何をしたっ」
 半立ちになって慄える青年の胸ぐらをつかんで引き寄せると、力任せに揺すぶって糾問を繰り返す。
「何をした。おまえはフリオに何をしたっ」
 と。ギリェルモの眸から勢い良く涙が溢れ始めた。
「だって……だってしようがなかったんです」
 顔面を涙で濡らしながら、ギリェルモはあえぐような、慄える声でささやいて主張した。
「何がしようがなかったと云うんだ」
 レックスはうめいて先を促した。聞かなくてもその先は知れていたけれど、しかし聞かずにはいられなかった。フリオは泣きじゃくりながら続ける。
「だって……治癒を受けられなかったんですよ。こんなひどい傷なのに。誰もフリオに治癒をしてくれないんです。そうでしょう。ケランナ都市の代官が云っていたじゃないですか。自分たちは王国の反逆者だから、どのような援助であれしないようにって王命が届けられているんですよ。ケランナ以外のどの都市だって同じですよ。どこへ行ったってもう、誰もフリオを治してくれないんです。フリオはこれから傷の痛みにうめいて苦しんでもがいて……そうして死んでゆくんです。可哀想じゃないですか。……だから……」
「だからお前が殺してやったと、そう云うのか」
 低い声で指摘を受けたギリェルモは、星明かりに青白く照らされた泣き顔をくしゃりと歪めた。
「だって。だってどうしてフリオがそんなに苦しまなければいけないんですか。フリオはそんな苦しみを受けなければいけない人間じゃないのに。善い奴なんです。本当に善い奴なんです。だから……」
「だからって、お前がフリオの命運を決めていいことにはならねぇだろうっ」
 怒声とともにレックスは握りこぶしをギリェルモの頬桁にたたき込んだ。ギリェルモが、泣き声とも悲鳴とも判然としない声を立てながら草地を滑って倒れこむ。が、レックスはそこで彼を放免してやるつもりはなかった。怒りと哀しみに、彼もまた興奮しきっていた。それはギリェルモ個人に対するのではなく、彼やフリオをも含めた自分たちすべてを取り囲む状況に向けた感情だった。世の動向に、世のなかが自分たちに見せた無情な顔に対する怒りを恨みを哀しみを、レックスはギリェルモに注いでいた。
「起きろ。孺子がきみたく泣いてねぇで、自分がやったことしっかり見て考えろよっ」
 起き上がる気力も元気もないのか、うつぶせのまま泣きじゃくるギリェルモの髪をつかんで引きずると、強引にフリオの顔を覗き込ませる。
「見ろっ。見て、お前のしたことを考えろっ。これが幼なじみにしてやることなのかっ。信頼していた幼なじみに殺されるだなんて、フリオだって思っていなかっただろうよっ」
 フリオの鼻先にこちらの顔面を埋め込もうとでもするようなレックスの膂力を、ギリェルモは無我夢中で振りほどいた。
「ありがとうって、云いましたっ」
 後ろ手をついて躯を支えながら、ギリェルモは絶叫した。
「フリオは自分にありがとうって、微笑って云いましたっ。彼は嬉しかったんですよ。そうでしょう。この先何日も何日も、痛みと苦しみにうめきながら、傷口から徐々に腐って死んでゆくよりも、今ここで安らかに眠ってゆく方が幸せなんだって、彼にだって解っていたんですっ」
「どうしてそんなことが判るっ」
「じゃあ、閣下には判るんですかっ。フリオが真実何を望んでいたかを、閣下は判るとおっしゃるのですかっ」
「〜〜〜〜〜〜っ」
 星明かりでも赫いことが判る憤怒の形相で、レックスはギリェルモを睨めつけた。その眼に紛うかたなき激しい殺気を見て取ったギリェルモは、至極ゆったりとした気持ちでそれを受けとめた。
(これでいい)
 これで楽になれる。フリオが行ったと同じ、楽な処へ逝ける。
 ことを意図して煽ったつもりは毛頭無いけれど、しかし現実になってみると、これこそが自分の望んでいたことなのだとはっきりと判った。こんな辛いところはもう厭だ。だから早く死なせてくれ。願いを込めてじっと、レックスの次の動作を待つ。
 数瞬が、そうして過ぎた。
 何か、ことさらおかしいことが起きたのだろう、酒宴を続ける男たちがどっと沸いた。
 その声に集中を解かれたのか、レックスが顔を歪めた。握りこぶしを額に押しあててうめく。その唇から、ひとつの音がほとばしった。
「う、あ、……あああああ――っ」
 怒声とも悲鳴とも判然としない、しかし聞いた者が胸をかきむらずにはいられない、悲痛な声だった。さすがにただならぬ気配を聞き取った男たちが笑いを止めて二人の様子を遠巻きにうかがい始めたが、レックスは気どれなかった。
「どうして。どうしてこんなことになっちまったんだああ〜〜〜ぁっ」
 草地を殴りつけたレックスは、そのまま、ギリェルモの存在を忘れたように、全身を顫わせ続けた。

 手伝いの申し出全てを断って、レックスはギリェルモとふたりだけで夜通し穴を掘った。剣の鞘や木の枝しか道具が無いなかで、フリオが安らかに眠りを続けられるよう、獣たちが掘り返さないよう深い穴を穿つのはひどく骨が折れる作業となったけれど、ふたりともに黙々と、草の根がもつれて張りめぐる固い土を掘り続けた。
 二三夜の月の出を、ギリェルモは、腰の深さにまでなった穴のなかで見た。額に浮いた汗を土に汚れた手の甲で拭いながら、汚れを知らない、それゆえに淡く脆く見える繊月を少時見上げる。
(本当に、あれで良かったのだろうか)
 月の光に誘われたのか、ふと、これまで彼の内部に確然と屹立していた自信が揺らいだ。フリオはたしかに、薬草入りの水を飲み干して嬉しそうに笑い、礼を云ってくれた。けれどそれが単に、渇きを癒してもらえたことへの感謝の気持ちだったとしたら。
 だとしたら、どうする。
 勃然と沸いた寒気がギリェルモの全身を包んで慄わせた。
 彼はまだ生きたかったのかも知れない。生きて、自分と一緒にイザークへ行くつもりだったのかも知れない。現にあんなひどい傷を負っておりながら、彼は持ちこたえていたではないか。マテオも「もしかしたら甦生するかも知れない」と云っていたではないか。それは彼の生に対する執着の表れではなかったのか。だとしたら自分がしたことは――
 聞きたいのに、聞いてあのときの気持ちを確かめたいのに、その本人はもういない。永久に失われてしまった。身を裂くような凄まじい喪失感に、ギリェルモはこの夜初めて襲われた。
 ギリェルモの動揺を聞き取ったように、レックスがそのとき、静かにぽつりと云った。
「生きろよ」
 弾かれたように振り向いたギリェルモの方は見ようとせず、剣の鞘で足元の土を掻きながら、レックスはぽつり、ぽつりと静かに続けた。
「悩み、疑念、納得、何でもいい。お前は、今お前が覚えている感情すべてを背負って、この先生きてゆくんだ。生きていくのがお前の義務だ。逃げることは許されない」
「誰が、許さないのですか」
 神だろうか、それともフリオだろうか。ギリェルモの推測は、しかし外れた。
「俺だ。俺が許さん」
 掘り出した石くれを穴の外へ放り投げた後、レックスは炯々と光る眼でギリェルモを睨めつけて宣言した。
「いいか。おまえはこれから一生涯、折々に今夜のことを思い返してはそのたびに様々な感情にとらわれるんだ。あれで良かった。そのはずだ。そう思うときもあるだろう。けれど、そうじゃない場合だってきっと来る。だが、どんなに苦しくともどんなに哀しくても、おまえは逃げることを許されないんだ。俺が許さない。もし楽な方へ逃げようとしたら、……」
 レックスは素早く腕をのばしてギリェルモの胸元をつかむと彼を引き寄せた。吐く息も感じられるほどの間近から睨めつけて低い声で脅す。
「どこまでも追いかけていって、捕まえて、引きずり戻してやるからな。解ったなっ」
 うなずいたギリェルモを突き飛ばすように放したレックスは、もはや彼の存在を忘れ去ったかのようにまた鞘を取り上げて土をかく作業に戻っていった。その背中を数瞬眺めたギリェルモも、また枝を拾って土をかき始める。
 かいているうちに、目の前の景色がくにゃりと歪んだ。
 自分が涙を落としていることにも気づかずに、ギリェルモは幼なじみの墓穴を掘り続けた。

 墓穴は、真夜中過ぎに掘りあがった。
 本人の外套で包んだ遺骸を穴の底に降ろし、淡い月明かりをたよりに集めた花ばなと一緒に埋めたレックスは、丸い石を使った即席の墓標の前に跪いて涙を落とすギリェルモをその場に残し、疲弊しきった躯を引きずるようにしてアイラのところへ向かった。
 黎明も間近い時刻だのに、アイラは起きて彼を待っていた。物思いに沈んだ表情で小さく焚いた炎を眺めながら、時折、思い出したように手にした小枝で炎をつつくことを繰り返していた彼女は、うっそりと近づいてくる跫を耳にするとす、とその顔を持ち上げた。昼間の戦闘の汚れに加えて更に泥や草の汁のしみで全身を汚したレックスは、まるで服を汚したことに対する叱責を覚悟して待ち受ける子どものようにうなだれてたたずんでいる。悄然と肩を落として立ちつくす夫を少時見つめた彼女は、やがて、静かに宥めるような声でささやいた。
「疲れただろう。休め」
 話す気力も残っていないのか、レックスは素直にうなずくと、くずおれるように勢い良く膝をついた。そのまま、アイラの手の指示に従って、彼女が草地に二人の外套を広げて作っていた寝床に倒れこむ。その手がアイラの腕をつかんだ。
「おまえは……?」
 かすれた問いかけを聞き取ったアイラは、ゆったりとほほ笑んでうなずいた。
「ああ。妾もおまえとともに休もう」
 深い安堵の息を吐いたレックスは、間を置かず自分の腕のなかにその身を滑り込ませてきたアイラをしっかと抱き締めて、彼女の胸に顔を埋めた。鼻先で式典服の合わせを割って、厚い布地の内部に高い鼻梁を埋め込む。半ば無意識にしたことだった。女のやわらかなはだの感触とかすかに立ち篭めるあまい香りをじかに感じて、ようやっとレックスはその躯からすべての緊張を解き放った。
「レックス。お前は善い奴だ。善い男だぞ。……」
 かすかな嗚咽を噛み締めるレックスの背を、アイラは長く軽くたたくように撫でてなぐさめた。……

 翌朝。
 一縷の望みを捨てきれなかったレックスは、街道を東進してトリィウ都市を目指した。バーハラから東にのびた街道が、ヴェルトマー公領国とエッダ公領国に向けて分岐する要所に位置するその都市は、古来から多くの旅人や商人たちが集まる通商都市として繁華を続けていた。残念ながら司教座都市に指定されていないため、トリィウに司教は常住してはいないけれど、しかし都市人口のおおきさにふさわしく、高位の司祭数名が教区を受け持っていた。市長や代官の判断にもよろうけれど、もしかしたらば、今は二人に減ってしまった重傷者の治癒も聞き入れてもらえるかも知れない。そう思ったがゆえの街道往きだった。補給や援助を得られる可能性が無いのならば、整備されて進みやすいものの、その代わりに人目につきやすく、敵方の追跡の足も早く進んで発見されやすい街道から離れた方が良いことは瞭然なのだけれど、その危険を押してもなお、レックスは重傷者を救いたかった。
 が、そうして午後も半ばにようやっと辿り着いたトリィウ都市での交渉の結果は、先回と同じ――否、もしかしたらケランナのときよりも悪かったかも知れない。
 長い時間が過ぎてからようよう郭囲壁門前に現われた代官は、何かと些細な理由を無数羅列してレックスたち一行の都市入場を拒み、重傷者のための司祭派遣を断った。そのくせ、では、とレックスたちが立ち去る用意を始めると、慌てて引き止めにかかったのだ。
 傷薬ならば提供しても良い、いま都市の薬屋から持ってこさせよう。
 どうやら薬屋には少量の在庫しか無い様子で、今郊外にある製作所から至急運んでくると云ってきた。もうしばらくお待ちいただきたい。
 等など。
 代官の実の無い繰り言めいた話しは、つきることも詰まることもないままにすらすらと流れてゆく。内容の無い一方的な会話を、レックスは、少ない睡眠時間しかとれなかったために痺れたような疼痛を訴える頭で半ば聞き流していた。山も谷もない演説は、古代語の講釈に似ていた。聞いているうちに頭が麻痺して眠くなる。
 いつしか、本当に転寝をしてしまっていたらしい。夢を見た。焦茶色の髪をした小柄な中年男が何事かをおめいていた。
 は、とレックスは眠りから覚めた。どうやら寝ていたのはわずか数瞬の、極短な間だけだったらしい。が、それで十分だった。頭は冷水を浴びせかけられたように清澄さを取り戻していた。
「ビヌリジ卿、どうかなさいましたかな」
 おおきな痙攣に襲われると同時にかっと両目を見開いて硬直したレックスを気遣った代官が尋ねてきた。レックスは一転、細めた眼で二瞬ほどじっと彼を見つめたのち、その問い自体は無視して素早く踵を返した。黒く固まった血糊と煤汚れを張りつけた外套が風を含んでふわりと舞った。
「もうここに用はない。今すぐ発つぞ。急げっ」
 思い思いの場所に腰を下ろして休んでいた部下たちに宣言するなり鹿毛にまたがったレックスに、代官は慌てて話しかけた。
「お待ちください、本当に今すぐ、傷薬が――」
 鐙ごと自分の左足を抱え持って縋りつく代官に、レックスは冷たい怒りの眸を向けた。
「俺たちはおまえの出世の具になるつもりはさらさらねぇんだ。残念だったな」
 脚をつかんで放そうとしない代官の腹に蹴りを入れて彼を突き飛ばしたレックスは、唐突な出発命令にも混乱した様子を見せず、すみやかに隊伍を組んで駆け始めた部下たちを更にせかして急がせながら胸中で迂闊なおのれに呪いの言葉を吐き続けた。
(この馬鹿野郎めがっ)
 昨日ケランナ都市の代官から助言をもらっていたのに、そのことを忘れていたずらに時間を浪費してしまったおのれの愚鈍さにはいくら罵倒をくれても気が治まらなかった。

『王の使者は、一定以上の人数集団が立ち寄った場合には、何らかの理由をつけて彼らを引き止め、早馬を王都へ派遣したのち、王軍の到着を待てと命令してきた』

 同様の命令を、トリィウの代官ももちろん受け取っていたのだ。そして、世のなかはケランナの代官のように都市住民の平穏な生活を維持するためレックスらに立ち去れと命ずる人間ばかりではない。むしろそんな男の方がめずらしい存在だろう。もしかしたら彼は自分たち――シアルフィ公国やシグルド、そして彼に連座して国を追われることになった人びとに多少なりとも同情を抱いてくれていたのかも知れない。フィアルアの脇腹を蹴りながらレックスはふと彼のことを思い出した。あれは代官位にあった彼ができる唯一精一杯の厚意の示し方だったのかも知れない、と。その真偽はとまれ、200名近い「悖逆者」を一挙に仕留める手助けをしたとなれば、その代官に対する王国府の評価は一挙に高まる。王国府の高い評価はすなわち出世と同義である。トリィウの代官がその魅力に眸をくらませたことは、行政組織に埋没して生きる人間として当然の反応とも云えよう。だからそのことに関しては、レックスは彼を責めるつもりはない。責められるべきなのは、自分と自分を頼ってついてきてくれている集団が置かれた状況を忘れ去ってみすみす足止めを食らっていたおのれ自身だ。レックスは歯軋りした。
 おそらくトリィウの代官は、自分たちの身元が知れると同時に、郭囲壁の他の出入口から急ぎ使者を走らせたはずである。そしてまた、アルヴィスはまず間違いなく、昨日王都から八方に逃走したシグルド軍残党を捕獲すべく追跡の隊を発しているはずだ。彼らはこの街道をたどってきているだろうか。
 間を置かず肯定の自答を得たレックスは顔を歪めた。なろうことなら、トリィウの使者と王都の追撃軍が出会わないように。出会いを避けられないとしても、できるだけ王都に間近いところにしてくれ。隊列の最後尾から、牛の群れを追う牧羊犬のようにおめいて部隊を急かしたてながら、レックスは必死に神に祈った。――が。
 祈りは聞き届けられなかった。無情にも。
 熟れた果実のように赫く染まった太陽が、みずからの重みに耐えかねたように緩緩とその身を地平線に降ろし始めた時刻。赫い西空を背に負って、数騎の集団が丘の頂に姿を現した。少時、付近に目を凝らした彼らはやがて、東方に激しい砂煙を巻き上げて疾駆する集団を発見した。

 ぴい――ぃっ

 甲高い呼び子の音が、ねぐらに帰る鳥たちの声ともどもをかき消して宵闇を切り裂いた。
「見つかったか」
 馬上から振り返ったレックスは、素早く彼我の距離を目算したのち、昼からこれまで怒鳴り続けてすっかりしわがれてしまった声をまた張り上げた。
「あれは少数の先行隊だ。恐らく広く散開して周囲を面で調べていたんだろう。すべてが駆けつけるにはまだ間がある。暗くなるまでにできるだけ距離を開いておけば逃げ切れるぞ」
 もしかしたらの話だが、と胸中でひそかにつけ加える。昼すぎから夕暮まで、ほとんど休まずに駆け続けてきた一行は、馬も人間も限界を迎えつつあった。馬の多くは口から泡を吹き出しているし、その上にまたがる男たちも全身雨に振られたように汗で濡れている。追走隊がどれほどの速度でここまで駆けてきたかは知らないけれど、少なくとも、自分たちほどに困憊しきってはいないだろう。加えて彼ら一行は、重傷者を寝かせたり食料を積み込んだ荷車は含んでおらず、その分身軽だ。
 もしかしたら、適当な場所に停止して陣を張って彼らがやってくるのを待ち受けるべきだろうか。
 この部隊が生き延びる可能性のおおききさを胸中で比べながら、レックスは決断を迷った。
「急げえ。急げえ」
 口中に砂が入り込むことにもかまわず絶叫したレックスは、そのとき、不思議な光景を見た。
 先を行くアイラがつ、と右腕を持ち上げて隊列から離れたのだ。彼女に続いて30近くの騎兵が疾駆する集団からこぼれ落ちるように分離する。徐々に馬の速度を緩めて隊の後方へ移動してきた集団を、レックスは苛立たしげに迎えた。
「いったいどうしたんだ。こんなに大勢の馬の脚が一時におかしくなったのか」
 レックスの脇に馬を並べたアイラは、さらりと答えた。
「追っ手は妾たちが引き止めるゆえ、おまえたちは先に行け」
 まるでちょっと近所に寄り道をしてゆく、とでも云うような気楽な口調だった。が、内容を聞いたレックスは目を剥いた。
「何を云っているんだ。気が狂ったか。引き止めるだと。アイラ、おまえが追っ手を引き止めるだと」
「昨晩おまえが席を外しておった時分に、妾が提案したのだ。もし王軍に追いつかれた場合には、比較的傷の軽い者がしんがりとなろうとな。ところが、傷の重軽にかかわらず全員がこれに申し出たものだから、選抜がたいへんだった。おかげで昨晩は寝そびれた」
 そのときの苦労を思い出したのか、アイラはくすくす咲って両目を細めた。
「ちょっと……ちょっと待ってくれ」
 レックスはかぶりを振った。重い疲労と突然そんなことを聞かされた衝撃で、頭がいつも以上にうまく働いてくれなかった。戸惑いの表情で、自分の脇を擦り抜けて後方へ移ってゆく騎士の人数を改めて計った彼は歯軋りして低くうめいた。
「無茶だ。死に行くようなもんじゃないか。俺はそんなことは許せない」
「許せよ」
 レックスの許可など端から求めていないアイラの口振りが、レックスの内部に怒りを爆発させた。
「許さんっ。たとえおまえの頼みだろうがなんだろうが、こればっかりは許さんっ。こんなやり方は俺の流儀にもとる。ああ、相手を迎え撃つってんなら、全員でやるんだっ。少数を置いてその隙にこそこそ逃げ出すだなんて、余人はともかく俺は、絶対にしねぇんだからなっ」
「するのだ」
「おまえの指図は受けんっ。おおい、部隊とま――」
 かまわず部隊に停止命令を発しようとしたレックスを、アイラは鋭い声で詰問した。
「ビヌリジ卿っ。現在のおまえが負った責務は何だっ」
 言葉を失ったレックスを睨めつけて、アイラは厳しい口調で続ける。
「卿を頼ってここまでついてきた人間を、イザークまで無事に連れてゆくことだろう」
「そうだ。そのなかにはおまえも、おまえが殿軍に選んだって云うあいつらも含まれる。約束しただろう。俺たちは全員でイザークへ往くんだ。憶えているだろう。忘れてなんかいないだろう」
 怒りから一転、哀願する口調に代わったレックスに、アイラもやわらかく微笑してうなずいた。
「忘れるはずがない。妾たちはともにイザークへ往くのだ」
「だったら――」
「なればこそ、しんがりが必要となってくる」
 アイラは振り返って背後を確かめた。後走する騎兵の頭越しに、今や続々とその数を増やしつつある追跡隊が見えた。わずかではあるけれど、距離も詰まってきたようだ。
「卿の云う通りに当方が全軍を上げて迎撃すればなるほど、あの部隊は撃退できよう。が、その後はどうなる。鏖殺でもせぬかぎり、彼らは王軍にその戦闘を伝えて援軍を依頼しよう。さすれば無傷な部隊が新たな追跡にかかる。対する我らは、新たな傷を負っての行軍だ。足取りはさらに鈍くなっておろう。すぐに追いつかれる。もしかすれば、我らの発奮いかんでは、これも撃退できるやも知れん。が、彼らはまた新たな部隊を投入してこよう。そうして先細りに細ってゆき、……ついには消滅だ。我らはイザークに辿り着けぬ。かように惨めな終末は避けるべきであろう」
 アイラの解説は、レックスにも同意せざるを得ない説得力を持っていた。が、しかし、レックスは納得しなかった。することなどできなかった。
「しかし、おまえたち少数が向かっていったところで結果は同じだろう。否、更にひどい。極少数の部隊だけでは一度の撃退だって無理だろう」
「しんがりにはしんがりなりの身の処し方と云うものがある」
 不敵に微笑したアイラは、ついで自信に満ちた顔でうなずいた。
「安心しろ。妾は死なぬ。おまえのために死ぬつもりなど毛頭ない。妾は生きて、おまえがいるイザークへ往くのだ」
 その眼を見たレックスは、アイラがもはや固く決めてしまったことを悟らざるを得なかった。無理に諦めさせれば、誇りを奪われた彼女は彼女でなくなってしまう。もっとも、レックスの云うことを素直に容れる彼女ではないのだから、無理遣りに納得させようとすれば、誰かひとの手を借りて、躯の自由を奪ったレックスを馬にくくりつけて走らせ、自分は当初の予定通りにしんがりをつとめるかも知れなかったが。
 いずれにせよ、彼女の決意を変えられるものはもはや何もないのだ。
 解ってしまった。けれど同意することはできなかった。それはレックスの眸には、今生の別れにしか見えなかったのだ。
「厭だ……アイラ、俺は厭だ……」
 駄々っ子のように、レックスは理論も理屈もなくひたすらかぶりを振って拒絶を続けた。
「どうしてもおまえが殿軍をつとめると云うのなら、俺もそうする。俺も残る。おまえと一緒にいる」
「馬鹿を云うなっ、ビヌリジ卿っ」
 アイラが吠えた。
「おまえがイザークに行かんで、いったい誰が現在のイザーク国王にこれだけの集団の受け入れを容認させられるのだっ。他の誰が外れても、おまえだけは、イザークへ往かねばならんのだ。そんなこともこれまで気づかなんだったのかっ」
 レックスはうつむいて唇を噛み締めた。忘れていたわけではなかった。ただ、そんな諸々のことがら、責務も義務も何もを置いても彼女とともにいたかったのだ。
 が、無理に、力づくでそれを行なえば、アイラは自分に向ける愛情の質を変えるだろう。
 アイラに軽侮されたり、拒絶されることなどレックスには耐えられなかった。彼女に愛を向けてもらうことをひたすら乞い願う彼は結局、アイラの望むようにしか動けないのだ。
「本当に、……だな」
「ん、レックス。何だ。声が小さくてよく聞こえぬわ」
 レックスは勢いよく顔を持ち上げてアイラを凝視した。
「本当に、イザークへ来るんだな。本当に、イザークでまた会えるんだな」
 必死の問いかけの裏に隠された彼の決意を聞き取ったアイラはあでやかに微笑した。
「ああ。あの草はらで会おう」
「約束したぞ」
「約束した」
 微笑したまま、アイラは馬の速度を落とした。
 笑顔が後方に去ってゆく。
 そのまま振り返らずに駆け去るべきなのだとはレックスも重々承知していた。アイラたちが自身を賭して稼いでくれる時間は、一瞬たりとも浪費することは許されないのだ。少時そうしてみずからの欲求と激闘を続けたレックスだったけれど、結局がまんできず、小さな丘の頂に辿り着いたときに馬の足を止めて振り返った。
 ゆったりと起伏しつつ続く街道が、斜陽を浴びて茜色に輝いていた。光の道筋がレックスの足元から一度降りて上った先に集まった彼らは、レックスが自分たちの方を見ていることに気がつくと、どっと沸いて手を振り始めた。
「閣下〜あ。じゃあ、ちょっくら行ってきまぁ〜すっ」
 ロヘリオの陽気なあいさつに、レックスもしいて明るく作った声で応じた。
「ああ。はしゃぎすぎてはめを外すなよ〜ぉっ」
「閣下の方こそ、おもりがいなくなったからって浮かれないでくださいよ〜」
 ラモンが茶化す。レックスは哄笑で応じた。夕陽を背に負った彼らの顔は薄く影を帯びていて、細かな表情までは確認できなかったけれど、長い時間を一緒に過ごした感で、レックスは彼らひとりひとりを判別できた。ロヘリオにラモン、エステバンにティモテオ、ガウルテリオにホスエー……。アイラの部隊の人間も、名前と顔だけなら知っている。全員が例外なく、部隊中では群を抜いた猛者たちだった。彼らを選んだアイラはなるほど、死ぬつもりはないらしい。ほっとした。
「閣下」
 間近で呼びかけられたレックスは、涙の浮いた顔でなおも莞いを続けながら振り返った。
「ああ、悪い。すぐに行くよ――」
 ギリェルモを見た目が、ごくわずかな瞬間ではあったけれど、動揺を映して揺れた。
 泣き腫らした目蓋を可能なかぎり見開いてレックスを見つめていたギリェルモは、そんな主君の反応に気づかなかったふりをして、真剣な表情で云った。
「今、しんがりのことを聞きました。お願いです、自分も彼らに加わらせてくださいっ」
 レックスの顔から笑みが消えた。
「おまえは死ぬつもりか」
 ギリェルモははじかれたようにかぶりを振った。
「いいえ、そんなつもりはありません。そもそもラモンさん方だって死ぬ覚悟で向かわれたわけではないのでしょう。皆さん、鞍にそれぞれ、イザークまでの食料をくくりつけていたそうですし」
「そうだったのか」
 初めて聞いた。驚くレックスに、ギリェルモは、荷車から半ば強奪するようにして分けてもらった焼き小麦や固乾酪の詰まった袋を見せた。
「自分も持って行きます。閣下に云われましたとおりに、自分は生きるつもりです。ですが、だからこそ、自分はあの場へ行かなければいけないんですっ」
 ギリェルモは必死だった。激しい戦闘に身をさらすことによって、ただ漫然と選んだ結果ではなく、たしかに自分が望んで生きているのだとの確信が欲しかったのだ。そうすることによって初めて、真実の意味で自分は生きることができるのだと彼は思っていた。
「お願いしますっ」
 レックスの目を見つめて懇願する。鋭い視線が内部を暴こうとするように体内に射し込まれたけれど、ギリェルモはけして目をそらしたり伏せたりしなかった。
 やがて。
「解った。行って来い」
 レックスが小さくうなずいた。
「ありがとうございますっ、行ってきますっ」
 嬉々として馬腹を蹴ったギリェルモの背に、レックスは大声をあびせかけた。
「俺の云ったことを忘れるなよ」
「忘れませぇ――ん」
 振り返ったギリェルモは晴れ晴れと笑ってレックスに一揖を送った。その姿が丘のうえの一隊に追いついて混じるまでを見送ったレックスは、最後に今一度、彼らにむけておおきく腕を振ると馬首を返した。
 本隊は、レックスが気を変えた場合にいつでも応答できるようにとでも云うように、丘のふもとに固まって停止していた。
 少時、じっと彼らを見つめる。
 もう自分を抱き締めて力づけてくれるやさしいかいなは無い。自分自身の手足のように細々と動いてくれる気心の知れた部下たちもだいぶん減ってしまった。
 レックスは、独りだった。
 独りで彼らをイザークまで導かねばならない。

 どうして――?

 頭のなかで疑問がささやいた。レックスはにやり、不敵に笑って、声には出さずに答えた。

 約束したからだ。アイラと約束したからには、自分はそれをやり遂げなければならない。

「おら、おまえらっ。なに呆っとしてんだよ。逃げろ。逃げるんだよっ。行くぞっ」
 大喝一声、レックスはフィアルアの腹を蹴った。





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